そこに咲く花のように
理趣経を漢音で読むのは、その教えを誤解されてはいけないから、という説を、割と信じていた。
しかし実際のところは、漢音を使う時代に入っただけ、なのだそうだ。
なぜなら、呉が滅びてしまったから。
とは言え、それを教えてくれたこの『理趣経(松長有慶著)』、
この本が世に出てからずいぶんと時間が経っているようで、また別の説が出ているかもしれない。
そして一般の、わたしのもとに届く頃には「最先端」ではまた違った事実が顔を出してきているのかもしれない。
学び「続け」なければいけないのは、
時代によって「真実」が変わるし、齢を重ねていくにつれ、自分ひとりの人生のなかでもそれらが変化していくからなのだ。
この場合は真実と言うより、「真実に近いもの」であって、
真実に肉薄する時もあれば、真実から距離を置いてしまう時もあるのだろうけれど。
……真実を真実と判断するのは誰だろうか、という話にもなってくるが。
一方で「誰が」というより、真実は真実として常にそこに「在る」という気もしないでもないけれど。
それはいつでも、一輪の花がすぐそこに咲いているかのように、存在する。