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祈り、道標となるもの

「悲」の力

 山尾三省著『観音経の森を歩く』を読んでいる。

 

 序盤、「大慈大悲の観世音菩薩」の「慈」とは何か、「悲」とは何かについての引用がなされており、

 そのうちの「悲」について。


 「悲」というのは、パーリ語及びサンスクリット語のkarunāの訳。


 そしてそれを、ニューヨーク大学出版局の『インド哲学小辞典』では


 一、あわれみ、同情。

 一、仏教における瞑想の一形態で、友人および敵の悲しみに対して等しく共感する状態。

 一、すべてのブッダおよび菩薩たちに内蔵されている固有の本質。


 と定義しているらしい。


 著者は「現代のアメリカ社会における解釈例として、大変興味深いものがある」と綴っているが、

 わたしが気になったのは、「友人および敵の悲しみに対して等しく共感する」の「敵の悲しみ」の部分。


 まるで、「敵」という言葉の輪郭が溶け出すようだった。

 

 「敵」。

 敵とは、何だろうか。

 ゲシュタルト崩壊を起こしそうだが、

 敵もまた人間である、ということ。


 「悲」は一度固められてしまった枠を、一瞬でも溶かすものなのかもしれないと、

 ふと思わされた一文だった。

 

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